山笑ふ (春の季語:地理)

     山笑う

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        パソコン絵画


季語の意味・季語の解説
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 枯れてひっそりとした冬の山にも、やがて春は訪れる。
 木々は芽吹き、草は萌え出し、山は瑞々しい命で満たされるようになる。

 そんな春の山は、遠くから眺めると、おおらかさ、やわらかさ、そして艶やかさを帯びている。
 冬の、鎮まり落ち着いた印象からは一変している。

 そんな山の様子を山笑ふと表現する。

 春の山笑ふのほかに、夏の山滴る(やましたたる)、秋の山装ふ(やまよそおう)、冬の山眠るも俳句の季語となっている。
 これらは、いずれも中国の山水画家の郭熙の言葉に由来する。
 郭熙は、画論『臥遊録』の中で、季節の移ろいに応じて、山をいかに描き分けるべきか、次のように述べている。

   春山淡冶にして笑うが如く
   夏山蒼翠にして滴るが如く
   秋山明浄にして粧うが如く
   冬山惨淡として眠るが如く


 どれも、四季の山の様子を表現する上で、これ以上ない言葉が選ばれている。 


季語随想
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 学生時代、一か月ほどヨーロッパを旅したことがあります。
 部屋に鍵のかからないような格安の宿を転々とする貧乏旅行です。

 その旅路で、同じような貧乏旅行の日本人学生と出会い、日本に帰ったらまず何を食べたいかを話しあったことがあります。
 結果、二人とも、日本に帰ってまず食べたい料理はカツ丼でした。

 ところで、カツ丼の上に乗っかっているカツは、西洋のカツレツを明治以降の日本人がアレンジしたものです。
 そして、それを卵で綴じて丼に乗っけたカツ丼は、カツそのものより、もっと歴史の浅い料理です。

 それでも、カツ丼は、当時の二人の貧乏学生を魅了してやまない、日本人の国民食となっていました。

 カツ丼は、日本人の二つの気質が生み出した、日本人の財産であると思います。
 すなわち、よいものは何でも吸収する貪欲さと、吸収した物を土台に新たな物を創造する自由さという二つの気質が生み出した、「食の世界」の至宝であると言えましょう。

 「俳句の季語の世界」にも、「食の世界」のカツ丼に似た至宝があります。
 それは山笑ふという季語です。

 日本人は「よいものは何でも吸収する貪欲さ」で、中国の画家が遺した「春山淡冶にして笑うが如く」という名言を詩歌の世界に取り込みました。
 そして、「吸収した物を土台に新たな物を創造する自由さ」で、「山笑ふ」の名句を次々と生み出し、季語としての地位を確立してきました。

 さて、「食の世界」では、今でも貪欲に新しい物が吸収され、それを土台に新しい物が次々と創造されています。
 例えばいちご大福は、流行の段階はとうに過ぎて、いまや根強いファンのいる定番の甘味になりつつあります。 

 これに対し、「俳句の季語の世界」はどうでしょうか?
 私は、「俳句の季語の世界」では、「よいものは何でも吸収する貪欲さ」と「吸収した物を土台に新たなる物を創造する自由さ」という日本人の二つの気質が、近年、あまり生かされなくなってしまったように感じています。

 「俳句の季語の世界」でも、生活、行事など、人事の部類に属する季語は、時代の変化に合わせ、少しずつ増えています。
 しかし、天文、地理など、自然の部類に属する季語はどうでしょう?
 吸収と創造によって、日本人の新たな財産と言えるような自然の季語、「山笑ふ」のような季語が、生み出されることはほとんどないのではないでしょうか。

 別に私は、いたずらに季語を増やせと主張しているのではありません。
 伝統を破壊して、俳句の世界を革新しようなどという野心もありません。

 私自身、俳句に関しては守旧派に属すると思われます。
 長い年月の中で淘汰されずに残った歴史ある季語を最も重視し、大切に守っていこうとする立場をとっています。

 しかし、「歴史ある季語の体系を大切にしよう」という姿勢が、「俳句は伝統文化だから季語の世界に新参者は認めず」というふうに過激化してしまっては、「俳句の季語の世界」が老年期を迎えてしまうような気がしてなりません。

 特に「山笑ふ」のような自然を擬人化した季語は、今の俳句の世界では、ほとんど生み出される可能性がないように感じられます。

 私も、「安易な擬人は俳句の質を貶めるから、擬人法を用いた俳句は厳しい目で読まなければならない」という立場をとっています。
 しかし、「俳句の世界では擬人は一切受け付けない。ましてや、擬人によって新しい季語を創造するなど、もっての他である!」という態度をとってしまうと、俳句の持つ可能性を大きく制約してしまうような気がしてなりません。

 私は、100年後の歳時記に、次のような文章が載ることがあってもよいと思っています。

 「この季語は平成に生み出された季語である。○○を××と擬人化することで、春の○○の様子をうまく表現している。今や、俳句をやらない人でも、春にはこの季語を時候の挨拶に用いる


季語の用い方・俳句の作り方のポイント
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 「山眠る」と形容される冬山を眺めると、山もその周りの空気も鎮まっていて、緊張感を覚えます。
 これに対し、木の芽が膨らみ、草が青み、鳥が囀り、「山笑ふ」と形容される春山の表情は、見る者の心を弛緩させます。

 見る者が、緊張から弛緩へと心を変化させる一瞬を、次の句はよく表現していると思います。

  筆取りて向かへば山の笑ひけり (大島蓼太)

 蓼太(りょうた)は信濃出身の江戸時代の俳人で、私の心を捉える句をたくさん作っています。

 次は私の俳句です。
 既に心を弛緩させている人物が、山の笑みを見て、いっそうリラックスした気分になっています。

  山笑ふノート丸めし筒の中 (凡茶)

 とにかく、山笑ふという季語が表現する笑いは、緊張から弛緩への変化を促す、ささやかな笑みであり、ゲラゲラの大笑いではありません。
 よって、次の俳句のように、日常生活のささやかな場面を取り合わせてやった方が、劇的な場面を取り合わせてやるより、山笑ふという季語を活かせると思います。

  蒟蒻のしみ損うて山笑ふ (竹丈)
      蒟蒻=こんにゃく。

  アルパカを撫づ四方の山笑ふ中 (凡茶)

 そして、山笑ふという季語を使うと、対象となる山が、ずっと身近に感じられ、愛おしく感じられる句に仕上がります。

  同じ名をけふ笑ひけり朝熊山 (中川乙由)
      けふ=今日。 朝熊山=あさまやま。

 長野と群馬の境にある、標高2568mの活火山のあさまやま(浅間山)を念頭に入れ、三重にある標高555mのあさまやま(朝熊山)を詠んでいます。

  鎌倉や昔笑うた山ばかり (飯島吐月)

 吐月(とげつ)は蓼太の弟子です。
 吐月がこの句を詠んだ江戸時代、既に鎌倉は古都になっていました。



≪おすすめ・俳句の本≫

俳句の宇宙 長谷川櫂著
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■ 俳句は深くて、面白いなあ… 心からそう思えた本でした!


 最も私の心をとらえたのは第四章「間について」
 この章を読み、俳句の「切れ」を「間」と捉え、その「間」をじっくり味わおうとするようになってから、既に目にしていた名句が、それまでとは違って見えてくるようになりました。

 また、第七章「宇宙について」も、面白くてあっという間に読んでしまいました。
 この章で、「造化」というものに関する著者の考え方を読んでから、芭蕉の時代の句に接する際は、その句が生み出される場としての「造化」というものを読み取ってみようと意識するようになりました。
 もちろん、私ごときが読み取ろうと思って読み取れるような浅いものではないのですが…

 とにかくこの本は、
 「自分が足を踏み入れた俳句の世界は、どこまでも深いんだなあ。そして、深みに潜れば潜るほど、新しい面白みに接することができるんだなあ… 」
 そんな気持ちにさせてくれる一冊でした。



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posted by 凡茶 at 18:32 | Comment(0) | 春の季語(地理) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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